この世の中に『絶対』と言えることがあるとすれば、
思想や倫理ではなく、もちろん宗教(神様)でももちろんなく、
『生を受けたものすべてが死をむかえる』ということだけだろうな。
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なんてことを暇を持て余しながら考えている。
考えることができるのは、人間だけと考えているのは、人間だけで
あることも確かなことだ。
「人間以外の生」を理解できていないだけ。
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学生たちの祝いのセレモニーで起立しないのは、学生たちへの
失礼にあたらないのか?ということを先日書いた。
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セレモニーとは結局のところ ”形式” なんじゃないかと思う。
その形式を守らないのは、そのセレモニーの参加者全員に対して
失礼なんではないのだろうか。
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その理由が、戦争体験からだという理由なら、セレモニーとは
別の場所で訴えればいいのではないのか。
そもそも戦争そのものを無くすために働きかけるべきだと思う。
入学式や卒業式で不起立して戦争が無くなるだろうか。
国旗や国家に罪はない。
その理由が、宗教的なものからでも以下同文だ。
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『“私”を生きる』 続映決定! ~ヒノキミ問題を超えて~
映画の宣伝をするつもりは毛頭ない。
この手の映画を見るつもりは全くないから。
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さて記事中気になる部分>>>>
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記者なりに、この映画の魅力を言い添えれば、3人の登場人物は
「自分の生き方を貫く」という意味では共通点もあるが、同時に相違点もある。
その生き方、考え方の相違点がこの作品に深みを与えている。たとえば、
同じ不作為(不演奏/不起立)であっても、佐藤教諭には背景に
「キリスト教信仰」があるし、根津さんの場合は、戦前の歴史的経緯がある。
また、土肥氏はある部分では「悪法も法なり」と職務命令に従いつつ〈言論の自由〉を
訴えてきた。土肥“校長”のもとで佐藤教諭、根津さんがいたら入学式・卒業式は
どうなっていたのか…そんなことを考えながら、この映画を見ても面白いかもしれない。
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「悪法も法なり」という言葉がでてくるが、映画の作り手が言わせているこの
言葉に ”考え方の偏り” はないのだろうか。と考えてしまう。
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作り手に是非「善悪」をどう考えているのかと聞いてみたい。考えをお聞かせ
願いたいと思う。
こないだ亡くなった談志さんが、思想の全く混じらないエンターテイメント、
全くのナンセンスなものが良いと生前語っていた映像を見たが、
全くの同感なのだ。
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単なる娯楽でいいのだね。
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言論の自由や表現の自由を語る方々は、プライバシーの侵害に対し
どう考えているんだろうか。
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世界中でたったひとり否応なしに、その個人の人権を無視されているひとが
いる。
それは誰でも知っている。
そういうものはスルー(見て見ぬ振りを)して、己の権利だけは振りかざす。
そしてそれを教育現場にさえ持ち込んで、自分の生き方を貫くという
矛盾と、見え透いた「嘘」をつく。
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俺思うに、こと先生と呼ばれる職業の方々は職場において『絶対的中立』
でなくてはならないと思う。
絶対に的が付くと意味合いが変わるので、敢えて訴えておきたい。
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教育を受ける側にも自由があるが、身体に障害があったりすると
平気で教育を受ける自由を無視してお断りしてしまったりする。
こういう『明らかな矛盾』に対しても目を瞑る。
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個人的思想を振りかざす前に、するべきことは沢山ある。
そういうことも含めて、不起立教師とは冷静に話をしてみたいと思う。
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余談だが宗教で言えば、魔女狩りや天動説によって迫害を受けたひとたちが大勢いる。
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戦争経験で言えば、戦争をした他の国々の国旗や国家も否定するべきだと
思うがいかがだろうか。
何故、日の丸と君が代だけなのだろうか。非常に疑問に思う。
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要は、歴史観や宗教観なんてものは絶対的なものですらないのだ。
時代とともに、時代に合わせコロコロと変わるものなのだから。
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話は逸れるが、日本国籍を取得して帰化したにも関わらず、帰化する前の
国の人間だと言って憚らないひとたちがいる。
日本国籍を取得した理由が、 ”ビザが取りやすく外国に行きやすい” からだそうだ。
こういう人たちにも年金やナンチャラ手当てを給付する必要があると思うのかも
是非聞いてみたい。
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考えることは大切だ。しかし「下手な考え休むに似たり」ともいう。
自戒の念を込めて書いてみた。
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絶対がこの世には『生と死』しかないとすれば、少なくとも先生と呼ばれる
方々は、先生という立場の場所ではいつも中立でなくてはならないだろう。
中立も当然絶対ではないのだから、中立的であるかどうかをいつも考え
行動するべきなんではないのか。
というのが俺の現時点での考え方だな。
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最後に、何故不起立問題は公立校の教師だけなのか。
(私立にもいたらごめんなさいね。)
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