慣れきった「閣議決定」

 財務省解体というのは誰がネーミングしたのだろうか。なにやら怪しい保守政党系もSNSでこの機に乗じているようだ。日本の保守は名ばかりで、ほとんど私利私欲の為の政党しかないようだ。国政ならば国全体だし県政なら県、市政なら市全体を考えなければならないはずが、保守の支持層は自分の懐のことしか考えない人ばかりのようだ。その結果、農業はずたずたにされ他の産業も商品売らずに株で儲けるような情けない状況になっている。それでもまだ私利私欲、自分のことだけこれまで通りでいいのだろうか。

 小選挙区制になって、地方議員候補の公約を国政選挙候補が叫ぶが、国政選挙の公約で地方特有の問題を公約として掲げるのは、あの政党の非常識で、地盤に予算を持ってくるという大昔からの慣習から彼らは脱することができない。選挙民も同様に考えているようだ。だから国政選挙と地方選挙では投票率がまったく違うのだおろう。政令指定都市では最大のここ横浜の選挙は30%台の投票率にとどまっている。だから市長を変えても政策内容は何も変らない。選挙で変えたように見えるだけなのは投票率から明らか。(情けないったらありゃしない)

 ここで本の紹介をしてみたい。

国分巧一郎著「目的への抵抗」

ー抜粋ー

 行政権が立法権を超える時

 なぜ立法権と行政権の分立を言う必要があるのか。それは実は行政権が非常に強力であるからです。確かにルールを定めることのできる立法権は強力です。そして原則的にはこの強力な権力に行政権は従属している。行政はその意味では単なる執行機関に過ぎないとも言える。

 しかし、法律で定められることいは実際には限界があります。例えば、公共の建物についての法律を作ることはできます。けれども、その法律で建物ひとつひとつの場所や形を定めることはできません。外交についての法律を作って、誰が外交の責任者であるのかを定めることはできます。けれども、外交の内容を法律で定めることはできません。そうやって考えていくと、現場で個別案件を一つひとつ処理していく行政には、実は大きな決定権があることが分かってきます。行政は法律によって定められた内容をただ粛々と実行しているだけではない。立方が決定して、行政が実行するだけではない。行政は様々なことを決定しているのです。

 ここには法律というものがもつ原理的な困難が現われています。法律は一般的な内容を定めることしかできません。ですから、個別的な内容はそれを実施する現場で決定されることになる。更に、法律は文章ですから必ず解釈の余地があります。機械的に適用できる法文などありえません。

 さて、現場では様々な事情によって物事が決められていきます。そうすると、どういう事態が想像できますか。立法権によってルールを決めていたはずなのに、行政権の担い手によって、思いも寄らない方向に解釈がなされたり、法律を作った時点では想定もしていなかったことがまるで法律に従っているかのように実施されたりすることが起こりうるということです。

 こうして、行政によるその場その場の法解釈や措置が積み重ねられることで、行政権が、事実上、立法権による管理を逃れていってしまう状態が、冒頭より言及している例外状態に他なりません。

 ある意味で、例外状態の発生は避けがたいとも言えます。また、例外状態が発生しているかどうかは、白か黒かで判断できるものではなくて、度合いを伴っているとも言えるでしょう。この件については行政権が立法権の手をやや離れてしまっているとか、かなり離れてしまっているとかいったことがありうる。だからこそ、原則が法律家によって絶えず確認される必要があるのです。

 アガンベンは次のように訴えています。コロナ危機において甚大な権利制限が行われている。「いかなる法的諸装置によってのことなのか?永続的な例外状態によってなのか?憲法の諸規定が尊守されているか確かめるのは法律家たちの任務だが、法律家たちは沈黙している。Quare silete juristae in munere vestro?(法律家たちよ、なぜ自分の任務について沈黙しているのか?)

 二〇世紀最悪の「例外状態」

 コロナ危機いおいて外出制限などは基本的に各国の政府の決定で行われましたが、それに対してアガンベンは、そうした決定が憲法に違反しているのではないかと問題提起しています。しかし多くの人達が、緊急事態だからという理由でその点にはもはや関心を持たなくなってしまっている。例外状態に我々が「以前から慣れきってしまっている」。

 これは日本においても顕著です。日本でも国民が例外状態に慣れきってしまっている。もっとも分かりやすい例は、「閣議決定」の当然視です。「これこれのことが閣議決定された」と報道されることがよくありますが、あれは政府の閣僚が集まって方針が決められたにすぎません。閣議決定に法的根拠はない。ところがマスコミは既にそれによって何か重大な案件が決定されたかのように報道している。そのことに慣れきってしまっているからです。

 行政権が立法権の手を逃れていく事態が着実に進行している。では、なぜその事態の深刻さをそこまで強調する必要があるのでしょうか。それはアガンベンのみならず、政治や法律を研究している人ならば誰でも知っている、二〇世紀に起こった例外状態の最悪の事例が存在するからです。それがナチスという事例に他なりません。

 教科書などでは、「ヒットラーが一九三三年に独裁体制を確立した」という言い方がなされていると思いますが、これは具体的にはどういうことかと言うと、政府という行政機関を正式な立法機関にする法律が可決されたということなんですね。いわゆる「全権委任法」です。何の前提知識もなければ、そのこのと重大さは理解できないかもしれませんが、ここまでの説明を聞いてくださった皆さんにはお分かりいただけるはずです。行政権には強大な権力がある。だからこそ、行政権は立法権に従属するという原則が必要である。確かに法律には限界があるにせよ、なんとかして行政を管理する政治体制が必要である。ところがナチスはそれを乗り越える体制を作ってしまった。

 これはある意味では「行政の悪夢とでも呼ぶべきものの実現でもあります。行政は常に法律に縛られている。だからそこにはどうしても、「自分たちでルールを決められたらどんなに楽であろうか」という想いが生まれてしまう。行政に携わっている人の誰もがそんなことを考えているわけではありません。ただ、行政は構造的にそのような想いを抱いてもおかしくない位置に置かれている。

ー抜粋ここまでー

 悪徳財務省に対する同様の意見があるが、財務省解体と叫んで仮に財務省が解体されたとして、その後なにが起こるか、ということをあのデモに集まった大勢の人々は想像しているのだろうかと、不思議に思う。財務省を解体するということは、この国を解体することにほぼ等しい。NHK解体などと言って詐欺まがいの選挙をする政治家もいる。

 権力によるNHKの私物化が問題なのであってNHK自体は単なる箱に過ぎないのだから、現状の私物化から脱却、独立させるべきだし、財務省の場合、省自体が権力だから、当然私物化は許されないが、財務省という権力が法から逸脱し、あるいは法の運用で国民にとり理不尽ならば、国会で法律を通すということしかない。官僚など一部のための行政ではなく、全ての国民のための行政にするためにどうすればいいのかと考えると、まずはじめにやるべきことは情報公開の徹底というほかない。

 あの腐敗したアメリカでさへ一定期間を経ると国の最重要機密でも情報公開されるが、日本にはそういう法律制度すらない。官邸機密費や各省庁ごとにある機密費も表には出てこない。これだけ国民に大問題として知れ渡っている裏金問題の真相を究明しない理由がそこにあるのだろう。

 法的根拠なしに閣議決定でなんでも決まってしまう現状は、議会の偏りが大きな原因だ。富裕層向けの経済政策や税制も議会の偏りが原因だ。数に任せて強行採決に慣れきってしまっている。アベ一強はアベが死んでも一強で、死んだアベに全ておっ被せれば済むと思っているようだが、そのことがあの政党が、なおもアベの亡霊一強ということを物語っている。解体するべきはあの政治政党なのではないのかと思う。もはや野党でない外野党も明確になってきた。

 既得権益としての大手マスコミ(TVや大手新聞と地方新聞)と行政の癒着問題は別の機会にて。

 

*こちらの記事も読んでね!

https://jannmu.com


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です